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EP2原稿10-審判(ジャッジ)のまとめ-2

「EP2原稿10-審判(ジャッジ)のまとめ-2」

 前回、「自分が何者であるのか?」、「私は誰か?」ということを忘れてしまったために、今も存在の中にありながらも、「夢を見ている」状態にあるのかもしれません、と書きました。

 このことと、審判(ジャッジ)とどのようなつながりがあるのでしょうか?
 
 このつながりを考える上で、存在と意識の次元という目には見えない形而上の領域、そして物質宇宙の次元という形而下の領域に分けて観察するとわかりやすいかもしれません。

 このモデルは、私自身に起こった体験とそれ以後私が学んできたものの中で、『ア・コース・イン・ミラクルズ』という本の概念が最も適合していると考えています。 また、この概念から私たちの人生の中に現れる問題(生老病死-四苦)の克服、そして「究極的な幸福の状態が何であるのか?」ということに関する道と目的も見えてくると思います。

 そのために、『ア・コース・イン・ミラクルズ』という本が、どのような概念によって展開されているのかをチャート化したものを、参考にしてみましょう。

 より正確なチャートは、以下のHPにて提供されています。
 http://www.jacim.com/acim/?page_id=140

 スピリットは、唯一絶対的な存在、第一の存在(第一位格)であり、すべての原因です。

 スピリットは、心-意-思考を生み出す創造者です。 ですから、あらゆる心-意-思考-被造物の存在背景でもあり、すべての知識の源でもあります。 また、心-意-思考-知識-被造物は、存在の子供たちにあたり、存在の一なる心の中にある第二の存在(第二位格)であり、存在から生み出されたすべての結果です。 

 第一の存在としてのスピリット・存在の心の中で生み出された意識としての被造物の世界は、私たちの意識がこの身体の中で様々な学問を学ぶことができるのと同じように、一つの心の中で整然と体系化された意識の相(実相)として働き続けます。 
 意識の相としての実相の世界は、一なる存在の心から生み出された知識の天国であり、創造者のなかで被造物(無数にある生命のイメージ)としてこよなく愛され、存在のなかで永遠に忘れられることなくあり続けます。
 
 また存在の本質は、すべてであり「愛」であることから、神の子が分離の概念により自我を夢見たとしても、自由意志を尊重し続け、自らの心である子を罰することもありません。 

 すべての誤解と錯覚は、第二位格である神の子が、「何者かになりたい」という願望や、「自らが神を退け創造者となる(自由気ままに遊ぶ)世界を夢見た」ことにより、真の自己を忘れ、無意識を選んだということです。

 それによって私たち神の子は、光ではない闇、愛とはまったく関係ない恐れを体験し、そこから一刻も早く逃げだそうと、物質宇宙を投影し、自らを意識をさらに拡散・分離し、この現実世界の一部になることを選ぶことになります。 その結果、真の自己を忘れ、意識が身体に覆(オオ)われ、固定され、拡散され、薄められた意識状態のまま、私たちは自分が主人公の世界を体験しているということです。

 そして、コースにおける概念の最大のポイントは、「神はこの世界を創造されなかった」ということです。 では「誰がこの世界を創造したのか?」というと、それは私たちが無意識になったとき、その総体によって投影され、夢見られ、作り出されたということです。

 通常、霊という言葉は、私たちの一般的な概念では、「亡くなられた方の幽霊」というような夢の意識状態の産物のことを指します。 しかし、ここで述べられている霊(スピリット)とは、そのような身体的な死を装う眠りの意識状態や、死から連想される恐いイメージとはまったく無縁であり、根源的な存在、私たちの本質(エッセンス=愛)を象徴する言葉だと考えてください。

 また、幽霊にしてもその存在を信じるなら、ある意味で「意識ある存在に死はない」という逆転の発想をすることもできます。 また様々な意識の階層構造における悪夢や地獄の概念にしても、意識がそこでも消滅せずにいることを考えるなら、意識の不滅性を再考する機会としてとらえることもできます。 それに、苦しみと結びつけられた霊の概念は、自我(分離の概念)によって生み出された幻想世界の物語の中で見られるものであり、それは実相の世界においては存在していません。

 ただ私たちの最大の誤解は、自らが存在となる世界を創造したいと思考し、存在の完全な思考である愛を、価値のないものとして捨てようと考えた時、分離の概念である自我の夢を見始めることになります。  

 存在の本質=エッセンス=愛が、自らとはちがうモノを選んだ瞬間、愛ではないすべての思考である「罪-罪悪感-恐れ」という感情が生まれたようになり、光の対極である愛を覆い隠す「闇」を体験するようになります。

 分離しようとする決断は、自らの本質である愛を忘れようとすることです。

 分離した自我を選ぶことは、確かに自らが創造者になることを夢の世界の中で可能にします。

 しかし、自らの本質の反対の極性を創造しようとした時、愛の属性と対極である罪-罪悪感-恐れを幻想・夢の中で作り出してしまうことになります。

 前回の私の日記で書いたもののうち、存在という言葉は、コースのチャートでは第一位格の「スピリット(霊)」あるいは「神」。 そして「意識」とは第二位格「神の子」「キリスト(救世主)」「私たちの本質」です。 また、分離後の私たちの意識を見守る役目をしているのが「ホーリースピリット(聖霊)」と呼ばれる第三位格です。 これは誰の中にも存在する「私たちの内なる存在の記憶」と考えることができます。

※第二位格は、イエス・キリストだけを指しているわけではありません。 すべての存在が、この現実世界における幻想性を手放し、目覚める意志を持つ時、私たちの誰もが神の子であり、キリストとして生きるようになるということです。
 
 存在から離れ、何者かになろうとすることは、分離し、個になろうとする決断であり、それは自らの本質である存在の愛を忘れようとすることになります。

 しかしながら、完全な意識として創造された子(意識)が、存在から離れて別のものになることはできません。 

 そのため完全な意識として創造された子は、存在から隠れるために光とは逆の特性である闇を想像をすることを思いつきます。 闇の中に隠れてしまえば、存在から離れ、自分の世界を自由に楽しめると・・・

 このようにして、光に満ちた存在の子は、神から隠れるようにして「(存在の)無い」世界を想像することで、自らが創造者となり、自分勝手に楽しむ世界-自我(分離の概念)の世界ーを夢の中で可能にします。

 しかし、完全な意識が、闇・眠りを想像することで、存在が無い意識状態が作り出されることになります。

 また、自らの本質の反対の極性を創造しようとした時、愛の属性と対極である神の存在を否定した「罪」と、それにともなう「罪悪感」、そして分離を体験することで生じた恐れを夢の中で強烈に感じます。 存在から分離することが何を意味するか、「無い」という意識状態を体験するまで気がつかなかったからではないかと思います。

 これは形而上の領域で、存在(神・父)と存在の子が天国を後にする夢を見る状態と言ってもよいかもしれません。 そして、この時以来、「在る(光)」と「無い(闇)」という分裂した意識状態が生み出されることになります。

 ところで、このように私が書いた文章は単なる仮説にすぎません。

 ただこの仮説とよく似た話として、「放蕩息子のたとえ話(ほうとうむすこのたとえばなし)」というものがあります。 これは、新約聖書ルカの福音書15章に登場する、イエス・キリストが語ったたとえ話です。 

 ある人に二人の息子がいた。弟の方が[2]親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は下の息子の要求通りに与えた。[3]そして、下の息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に生きて散財した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。
我に帰った時に、帰るべきところは父のところだと思い立ち、帰途に着く。父は帰ってきた息子を走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
父親は、息子のために祝宴を開く。しかし、兄はそれを妬んで父親に不満をぶつけ、弟を軽蔑する。兄は父親にたしなめられる。
この物語の主題は、差別されている者を受け入れて、神に逆らった罪人を、迎え入れてくださる神の愛である。登場する父は神を、「弟」(放蕩息子)は罪人である人間(異邦人、取税人、遊女たち)「兄」はパリサイ派、ユダヤ人を指しているといわれる。

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 このたとえ話の解説として、検索したHPの中で個人的によいと感じたものがありましたので、ご紹介したいと思います。

 聖書を語ろう 

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 あえて私たちの概念の中で、存在を何かに喩えるとするなら、太陽のような光源です。 ただ物質的な太陽との違いは、固定された形の必要のない光源そのものと考えるとわかりやすいかもしれません。 あるいは、コースを学んでいるマイミクさんが喩えた言葉としては、文字が何も書かれていない背景のような状態・存在です。  

 私があえて「神」という言葉を使わず「存在」という言葉を使った理由は、「神」や「霊」という存在を表す言葉が、私たちが体験している次元においては、あまりにも神話や宗教によって歪曲されて考えられているからです。

 このため、様々な「神の概念」あるいは「神話」によってつくりだされた神という言葉のイメージや信念体系から、少し距離を置いて見つめるために、あえて「存在」という言葉を使いました。

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