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仏法トピックス-23(梵我一如と仏教との相違-3)

「お知らせ」

 私のブログを読んでくださっている方へお知らせしたいことがあります。

 よくこちらへ遊びに来てくださっている方は、すでにご存じであると思いますが、
 私は様々な書籍から自分自身の学びのために、よく本から抜粋します。

 基本的に学術研究の目的で、「著者、出版社」を銘記したうえで抜粋するのは
 違法ではないと思っていたのですが、最近は著作権法などの関係で
 抜粋に関しても、どんどん厳しくなってきているような状況があるように思います。

 ですから、以前、抜粋していた日記を数日前、大幅に削除させて頂きました。
 何もお知らせしなくて申し訳ありません。 m(_ _)m

 あと、私はACIMを学んでいたり、仏教関係では、特に初期仏教と関係することが書かれている
 アルボムッレ・スマナサーラ氏の著作を数多く、抜粋したりもしますが、
 私はある特定の宗教団体に所属しているわけでもありませんし、
 そのような団体に加入されることをお勧めしているわけでもありません。
 
 その旨、ご了承くださいませ。

 また仏法トピックスについてですが、あと1回で終了した後、
 これもまた著作権の問題にふれる可能性があるので、完了させたあと削除する予定です。

 今後は、抜粋などは最小限にしながら、ブログの内容をよりよいものに変えていきたいと思っています。

 今後とも、よろしくお願いします♪

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 仏法トピックス-22の続きです。 今回も、『沙門ブッダの成立*山崎守一著*大蔵出版』から、仏教が誕生した背景を少しだけご紹介したいと思います。

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第八章 覚りの内容

3.三法印(サンボウイン)/四法印(シホウイン)

 原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』の中に、次のようなフレーズが繰り返される。

 「無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である。 無我なるもの、それは私のものではない。 私はそれではないし、それは私の我ではない」(SNiii,22)

  これは、やがて「諸行無常(ショギョウムジョウ)」、「諸法無我(ショホウムガ)」、「一切皆苦(イッサイカイク)」と定型化されるようになる。 この中で、「諸行無常」と「諸法無我」には客観性があるが、「一切皆苦」は個人の感じ方であって、きわめて主観的なものである。

 とはいえ、われわれの住む現実の世界は、一時たりとも同じ状態が続くことなく、絶えず変化することを免れない。 この変化することが避けられないことによってもたらされるものが苦である。 それゆえ、その対極として、苦を脱したところに輪廻転生から脱れた解脱・涅槃の世界があることを説かざるをえなかったのではなかろうか。 

 『サンユッタ・ニカーヤ』(SNi,158)や『ディーガ・ニカーヤ』(DNii,157)に、「諸行は実に無常である。 生起(ショウキ)と衰退を性質とするものである。 それらは生じては滅する。 それらの寂静(ジャクジョウ)は楽しみである」とある。

 このフレーズは、苦を滅した後には心の永遠の安らぎの世界があることを示している。 前出の「諸行無常」と「諸法無我」に、この「涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)」を加えて、三法印(サンボウイン:法印とは真理の旗印の意味)、あるいはさらに「一切皆苦」を加えて四法印(シホウイン)と呼ばれるようになり、仏教の基本的な真理として確立するのである。

 ここで、この二つのことにわれわれは注意をはらわなければならないだろう。 一つは、ブッダが説法するに当たって、その時代に広く人々に知られていた用語を使用していることであり、もう一つは、インドの宗教の本流とも言うべき、ウパニシャッドの考え方と正反対のことを説いているということである。

 つまり、当時のウパニシャッドの哲学とは対照的な異端とも言うべき思想を表明したということである。 まず、用語(いずれも便宜上パーリ語)の使い方であるが、無常は「アニッチャ」(anicca)で、常(ニッチャnicca)に否定を表す接頭辞a-が添えられた語である。 苦は「ドゥッカ」(dukkha)で、その反対が楽(スカsukha)である。 そして、無我は「アナッター」(anatta)で、我(アッターatta)の否定語である。 これらの語は、どれもウパニシャッドで用いられていたもので、仏教特有の語彙ではない。

 ブッダがこれらの語を用いて説法することができたのは、説法の聞き手、すなわち対告衆がウパニシャッドの用語に照らしながら理解できたためと考えられる。 

 次にウパニシャッドの思想とは相容れない仏教特有の思想、すなわち四法印について述べなければならないが、「一切皆苦」の「苦」については、第六章第二節の「5.出家の動機」のところですでに述べ、「涅槃寂静」については次章で述べるので、ここでは「諸行無常」、「諸法無我」について検討してみることにする。

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 「梵我一如説(ボンガイチニョセツ)」は、梵(ボン=ブラフマン)と呼ばれる宇宙の根源であり根本原理と、我(ガ=アートマン=自己の内にある永遠不滅の実体)を知ることができれば、ブラフマンと合一することができ、解脱に到達することができる、あるいは、個人の本体(我)と宇宙の本体(梵)とは同一不異であると認識することができれば、すべての苦しみから解放されて、安心立命(アンジンリツメイ)の絶対的な境地に到達することができる、という考えです。

 しかし、お釈迦様は、そのような梵我一如説におけるような我(アートマン)の存在を否定したため、輪廻転生(リンネテンショウ)における主体も想定しにくくなりました。

 それが後に、小乗、大乗と呼ばれるような仏教における思想的な分裂や、仏教経典における概念・教義の拡張を生み出すようになったようです。

 このため、ここのところは各宗派によって様々な概念や説を生み出しているので、どの宗派の主張が正しいのかよくわからなくなります。

 そして、仏法トピックス15(四神足と神変)http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1849734501&owner_id=6354843のところでも少し話題にしましたが、禅定による一時的な超越体験と覚り・涅槃の境地が、どのように異なるかを見極める必要があるように思います。 

 また、あくまで原始仏教におけるお釈迦様の教えを基準にしながら、仏教がどのような概念的な変遷があったのかについて、すぐにどの宗派が間違いであるとか考えるのではなく、まずはアウトラインを知ることが大切だと個人的に考えています。  
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