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EP2原稿9-審判(ジャッジ)のまとめ-1

「EP2原稿9-審判(ジャッジ)のまとめ-1」

 ところで、この原稿を書き始めるキッカケになった私自身の「審判(ジャッジ)」というテーマですが・・・  これは私たちが人として存在している間、あるいは自分と他人そして自然界・物質宇宙と共にある存在の状態において、意識が物質・肉体的な視点の中に固定されている間中、認識続けることだと思います。 外側にある対象について考えている時には、身体の快・不快による知覚機能に基づき、その対象について、「それは私にとって良い、悪い、ふつう、どうでもよい」というような反応を感じ続けているからです。

 また先ほど私自身の「自我意識の消滅体験」について書きましたが、そのような体験をした後でも、私の自我はあい変わらず、許すことより、外側の対象を非難・批判し、裁き続ける傾向は健在でした(笑)。 振りかえれば、この頃の私は、自我についての定義も曖昧でしたし、自我と自らの本質の違いも、よくわかっていませんでした。

 それでも、スリーインワン・キネシオロジーの技術を習得する間に、よかれと思って話したことでも、「それはあなたのジャッジ(決めつけ)じゃない!」と言われることがよくありました。 正直、このように言われたときにはムッとすることはありました。

 でも、スリーインワン・キネシオロジーの方針の中で、その人自身の内側にある真実と選択の力を尊重することに、意識をフォーカスし、純粋に身体の声をクライアントの意識に帰すだけで、もっとも自然な癒しが起こることを幾度となく体験しました。  

 そのような体験も含め、ファシリテーターになるためのトレーニング中、少しずつではありますが、治療家として自分自身の考えを押しつける方法から、クライアント主体で身体の声を聴き続ける技術も身につけることができました。 もっとも、いつでもどこでもジャッジすることなく・・・なんて境地には残念ながら至っておりませんが・・・(爆)。

 ところで、この審判というテーマは、古くはキリスト教における「最後の審判(Last Judgement)」という宗教的な思想体系からも大きな影響を受けているように思います。

 誰かを審判し(裁い)たり、誰かに審判される(裁かれる)ことは、自分とは違う誰かや何かが存在する世界や、私たちの意識が身体に固定された状態の中では、当たり前のように行われています。

 この分離現象によって作り出された「正誤・正邪」を判定・判断した後、対象を非難・批判・審判しようとする思考・感情的反応を、身体の知覚を基準にして物事を判断しているうちは、その反応を超えることが難しいと思います。

 また、私たちの意識が、身体意識と共にある現実(リアリティ)の中で生き残ろうとしている間は、この思考反応は、ある意味で必要なことではあります。 このため、この現実の中で、「人類はみな兄弟」、「私たちはひとつである」と声高に主張したとしても、肉体的な視点を基準(前提)にして、物事や出来事を決定している間は、分離感、罪悪感、それに基づく人間の根源的な問題は解決されることはないと思います。 

 でも、もし私たちの本質が意識そのものであり、身体という形を越えた存在の状態において、私たちが完全にひとつであったとしたならどうでしょう?

 そのような存在の状態においては、審判する人も、審判される人も存在しないことになります。 

 そして、もしこの「審判(ジャッジ)」に満ちた世界の必要性がなかったとしたら・・・

 という前提をここで紹介したいと思います。 

 私たちが人間であり、それによって主体(私がいて=観察者)と客体(何かや誰かがいる=観察されるもの=対象=所縁)が存在しているのは、この世界における常識です。 しかし、意識はもともと形のあるものではないと思います。

 意識は、現代医学による生命現象の一部を観察する脳波や心電図などの計測機器によって、生命の波動をエネルギー現象の変化としてとらえることで、ある程度視覚化することはできます。
 これはあくまで「意識」が身体と同調している時に、生命現象を物理的な計測機器を介し、エネルギーとして観察しようとする方法です。 私たちは、この生命エネルギーの流れ、あるいは「意識とは何であるか?」ということさえも、正確に理解しているとは言えないと思います。

 ここで少し、すべてが始まる前の前提について考えてみたいと思います。 これはあくまで、前述の体験をした後、私自身が様々な文献を通して仮定した概念であり、それが絶対である、と話しているわけでもありません。 すべての出来事を原因から考えてみるとき、この現実世界における物事の見方がどのように変化するかを仮定した一つの考えに過ぎません。

 「存在(Being)」があり、「※意・思考」が生まれ、意あるいは思考がある形・イメージ(構造)と働き(機能)を創造し、意を織ることで「意識」になります。

※意字源(ウィクショナリー) 会意。 「心」+「音」(口の中に含む)。
 意義 おもい。 こころ。 おもう。 かんがえる。

 存在とは根源であり、もともと私たちが考えているような「次元・物質・エネルギー・空間・時間」という対象を定義する必要性のなかにはないと考えることができます。

 なぜなら、存在と意・思考そのものの本質を考えるとき、私しか存在しない状態において、あるいはすべてが一つである存在の状態が、私という主体と離れた何かが存在することなど想像する必要もないからです。 

 また、私しか存在しない状態において、すべてが私の意・思考であり、自らが意識を創造していることを知る存在が、わざわざ「私」を名乗る必要もありません。 私以外は存在しないからです。

 最初に「存在=Being」があり、存在は「思考=Thinking」し続け、思考は拡張し続けます。

 この存在「ある」は、自らの中にすべてがあることを知り、その中にあるすべてが自らの意・思考の結果です。 そして、その存在の中で生まれたすべての思考や意識たちは、存在の子供たちのような存在です。 そして、存在の思考によって創造された存在も、等しく完全で、光輝く存在以外の何ものでもありません。

 さらに、存在の思考によって創造された存在は、存在の中で、存在から決して離れることなく創造し続けるような働きがあると仮定します。 この思考の存在の状態は、それぞれという分離の概念を持つこともなく、思考の流れの変化を観察し続けることができます。

 ですから、この存在の状態における意・思考は変化に巻き込まれることなく、その本来の性質である創造性を拡張し続けることができます。

 そして、それを存在にフィードバックし、そのフィードバックは、存在の中で、すべての思考に共有され、光だけが存在する無限の歓喜の状態なのかもしれません。

 これが、私たちすべての存在の根源・本質であり、次元や「物質・エネルギー・空間・時間」の世界のような変化の流れを、分離し個別された物質・肉体の中で体験することもないため、それらの構成要素による拘束を受けることもありません。 そして、存在の本質は、最初から次元・時空の中にはないため、そのバックボーンとして、今もこの瞬間にあり続けます。

 物質宇宙の法則の中では、「永遠」に変化しないモノや現実という考え方をすることはできません。 しかしながら、存在の根源・本質の中においては、永遠・恒常的な状態は存在します。

 なぜなら、存在はすべてがひとつであることを決して忘れることもなく、存在と分離している状態があることなど考えることができないからです。 また、存在の意・思考が拡張し続けたとしても、存在自体は無限の思考(光)を創造し続けるだけであり、思考の流れに影響されたり変化することもなく、不変、不滅のままであり続けるからです。

 私たちは、「自らが何者であるのか?」、「私は誰か?」ということを忘れてしまったために、今も存在の中にいながらも、「夢を見ている」状態にあるのかもしれません。

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