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EPⅡに加えたい技術として-1



 最近、ACIM(ア・コース・イン・ミラクルズ、以後コースと略)のワークブックによる365日のレッスンとアレクサンダー・ロイド博士による『ヒーリングコード』という技術を併用して、私自身の心の問題に対してアプローチし続けています。

 今回、日記のタイトルで「EPⅡ(エッセンシャル・プロセスⅡ)」という私が主催しているセミナーで加えたい技術と考えているものが、上述した『ヒーリングコード』という技術です。 

 しかしながら、『ヒーリングコード』という技術のなかで、アレクサンダー・ロイド博士が、真実だと考えられている信念の定義において、じゃっかん旧来の聖書・キリスト教の概念が多いため、少し根源的なアプローチへ到達しにくい内容もあると正直感じました。

 私はそこに対して、私自身が学んできたこと、体験したことをもとに再構築したいな、と考えています。 私のなかでは、テーラワーダ仏教とコースの概念の2つが、根源的な真実・真理への架け橋だと感じているからです。 そこで、コースの概念について、少し考察したいと思います。

 コースの概念によるこの世界の現実に対する物事の見方は、一般的な考え方を越えています。

 というのは、コースでは、この現実世界における私の身体を基準に知覚している「分離現象」そのものを錯覚・幻想・夢である、とみなしているからです。

 逆に、コースのワークブックのレッスンでは、それらの錯覚・幻想・夢のなかで、身体を知覚しながらも、その現象に左右されないように心を育み、訓練し、自らの本質である「すべてとひとつである」という真理へと知覚を訂正していくプロセスがあります。 そのときに、ワークブックでは、自分の思考と感情レベルに沸き上がってくるどんな小さな動揺や心配事、いらだちに対しても正直に向き合う態度を養っていきます。

(ところで、何が真実あるいは真理かという定義を考えるとき、私のなかでは、この現実における物事の法則としての真実と、存在において、何の例外も存在せず、唯一・絶対であることを真理の状態とよぶにふさわしい言葉だと考えています。)

 ところで、身体という制限された自我にとって、完全な満足を得ることは少ない状態にあると思います。 

 たとえば、贅沢な食事をすることができて一時的に満足が得られても、その満足感を持続することはできません。 というのも、身体がある一定の食欲を満たした後には、それ以上は受けつけなくなるからです。 また、何か一生懸命に努力していることを達成できたとしても、また「その次に何かをしなければ・・・」というように、人生は身体の必要性にもとづく行動が続くからです。

 私たちは、身体と共にある人生のなかでは生涯、必要なことがあり、それを決して避けて通るようなことはできない状態で生きているということです。 そこには依然として、身体、自我意識における完全に満たされることがないという欠落感と、神と考えられている存在との分離感、それにともなう恐怖と罪悪感が完全には解消されていないといえます。

 前述したアレクサンダー・ロイド博士が真実と定義されていることは、身体重視の考え方も残っているため、自我と神との間に横たわる分離感や罪悪感の問題が完全に解消されていないと、私が本を読んだ範囲において思ったことです。 

 では、「そのような人生に対して、どのように向き合っていけばよいのか?」ということが、私たちの生涯にわたる問題とも関係してくると思います。

 身体があるかぎり、自我は「私の身体」を維持しようとする安全欲求が生まれます。 次に、その安全を確保するためには、ほかの人からの支えがあったほうが助かるため、他者からの承認を求める欲求が生まれます。 さらに、自分の状況をよりよくするために外側を何とかコントロールするようになります。 

 このような「安全、承認、制御」しようとする欲求は、個別化された自らの身体としての自我を生きのびさせようとするものであり、その自我は、最初に何者かになりたい!という心の次元のなかで生まれた「分離欲求」があったことによって、バラバラな世界を知覚するような仕組みが生まれたようです。

 コースは上記のようには説明していませんが、身体、そして分裂した心によって生み出された自我意識そのものは、私たちの本来の姿ではない、としています。 私は、この存在の真理を、頭による概念だけではなく、心が完全に理解することによってすべての救いが見いだせる、と考えています。

 ところで、少し話は変わりますが、時空のなかで知覚される真実としての「原因と結果の法則」について少し考えてみたいと思います。

 そのなかで、「ニワトリが先か卵が先か?」という命題がありますが、私たちは身体の知覚によって、ある空間のなかで、ある物質という対象を感じるとき、瞬間的に、私と何かがある、という存在の世界を生み出し続けます。

 時空の領域では、成長の順番があると考えられ、それは始まりと中間と終わりというように、時間の中での連続する変化が、映画のコマ送り映像のように、時間の流れのなかで、カットされた部分だけがクローズアップされ、それが知覚されている時間の世界における事実・真実として考えられていること、と言ってもよいかもしれません。

 また同時性という原因と結果の法則を越えた心の法則もあり、それは、物質的には遺伝子、つまり細胞の変化の鋳型・プログラムのようなものです。 

 そのなかには、卵もあり、にわとりもイメージとして同時に存在するプログラムがあり、時空のなかでは、そのある一点を切り取るという形で知覚されるときに、原因と結果の法則が変化する世界の中でカットされた順番の状態が、時間の経過のなかで見える、ということです。

 このようなプログラムが最初になかっとするなら、原因と結果には何の繋がりもなく、鶏の卵が、突如として人間に変化するというようになってしまうので、時空のなかで物質が変化し続ける原因と結果の法則より、心の同時性の法則のほうが上位のシステムとしてあることが想定できると思います。

 これはたとえば、ある映画の主人公の物語が記録されたDVDがあるように、私たち一人ひとりの身体、他のすべての生物たちが、時空のなかである身体をもつ生物の物語として、変化を体験するように仕向けられた映像元・プログラム(無意識あるいは、阿頼耶識(あらやしき))があり、そのなかにいくつものDVDのコレクションが貯蔵されているという感じです。

 そして、自分のDVDがこの地球上の現実で上映されている間は、その結末が見られない状態に誰もがおかれている、というふうに考えると、少しちがった視点から自分の物語を眺められると思います。

 量子物理学の世界では、私たちの人生も宇宙も、あらゆる次元の領域も、「すべてが空間、あるいは瞬間のなかに、たたみ込まれている」と表現しています。

 私は、この現象のすべてが、たたみ込まれている投影元こそが、あらゆる生命の自我意識を作りだす偽物の源であり、その偽物の源を越えて観ることこそが、目覚め、悟り、と呼ばれる境地だと考えています。
 
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*阿頼耶識(あらやしき、Skt: ālaya-vijñāna आलयविज्ञान)は、大乗仏教の用語。
サンスクリット ālaya आलय の音写と、vijñāna विज्ञान の意訳「識」との合成語。旧訳では「阿梨耶識(ありやしき)」。また「蔵識」(藏識)「無没識(むもつしき)」とも訳す。「頼耶識」「頼耶」等と略されることもある。

唯識思想により立てられた心の深層部分の名称であり、大乗仏教を支える根本思想である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識のうち第8番目で、人間存在の根本にある識であると考えられている。ālaya の語義は、住居・場所の意であって、その場に一切諸法を生ずる種子を内蔵していることから「蔵識」とも訳される。「無没識(むもつしき)」と訳される場合もあるが、これは ālaya の類音語 alaya に由来する異形語である。法相宗では、心は阿頼耶識までの八識とする。天台宗では阿摩羅識を加えて九識、真言宗ではさらに乾栗陀耶識を加えて十識とする。

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