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人生の四大苦という幻想

 私たちが、人生の四大苦(生老病死)を見ているのは、「自分が何であるか?-私は誰か?」を錯覚-誤解-していることによると『奇跡の道』の中で教えています。 人生の四大苦のすべては、「私は身体である」という前提や信念が正しいと考えられていることから生じています。 

 『奇跡の道』では、神が創造されたものは完全であり、神によって創造された神の子-私たち-も完全であるとしています。 これが何を意味するかというと、神は身体は創造されなかった、ということです。 そう考えることができるなら、「この世界を想像したのはいったい誰なのか?」、あるいは「自分という存在とは本当は何なのか?」ということだけが問題になると思います。

 私たちがいつも目にする現実は、まったく神が最初に創造された世界とは異なることは一目瞭然です。 では、一体全体どこに間違いが生じているのでしょう? 一体全体・・・(これはおもしろい言葉ですね)

 コースによれば、「神はこの物質宇宙や神と異なるモノを創造されなかった」というのが、その答えになります。

 身体と心と魂の3つの相を統合することを目的とするスピリチュアルな概念では、神は身体と心と魂を創造されたと考えられています。

 この考え方を採用するなら、私たちの身体は永遠と呼べる代物とはとうてい信じることはできないと思います。 なぜなら、身体はたえず変化し続け、やがて死を迎えます。 それが真実であるなら、神はウソをついていることになると思います。 

 また、心はどうでしょうか? 身体を自分だと信じ見ている心は、自分とは違う何かが自分を攻撃するのではないかと、いつもおびえています。 その理由として、自分はちっぽけな身体であり、自分の外側に見える世界は、バラバラなモノに満ちており、それと衝突すると、身体が傷ついたり、心が傷つけられるようなことがあると感じられるからです。 心に恐れと愛というような二つの状態があるとすれば、神が恐れも一緒につくられたなら、私たちに救いはないと思います。 また、神が、もし私たちに恐れを与えたなら、それは優しくも愛でも自由でもない悪魔のような存在が神でもあるということになります。

 そんなことがありえるのでしょうか?

 もし真実が、神は善でもあり悪でもあるとしたら、つまり、神が善悪、正邪、陰陽、男女などの二元性をつくりだしたとするなら、神は善でも悪でもあるということになり、真実などは存在していないということになります。 相対する何かが存在すると信じられている世界においては、ある考えに対してそのどちらも正しい、あるいは、そのどちらも間違いである、という相矛盾する答えが生みだされるからです。

 ですから、相対性の概念のなかで、正しさを主張しても、二元性を前提にした概念のすべてのなかで真実を知ることはできないし、真実は存在しないことになります。 

 魂についてはどうでしょうか? 一般的に考えられている魂は、神から分裂した自己があり、それが様々な次元で様々な自己を形づくっているという考えであると思います。 悪霊がいるとか、生霊と考えられているものは、自分とは違う目に見えない霊とか魂があり、自分を目に見えないレベルで攻撃することができると信じていることによると思います。 コースにおいては、霊とは唯一の神のことであり、その霊の状態において、分裂した個別の魂などは存在しえない、と定義されています。 ですから、バラバラな何かがあると信じられている概念のすべてや、悪霊とか生き霊、身体などは、本質的な霊の状態に実在しているものではなく、すべて神の子が見ている夢のなかで想像された出来事だとしています。

 今日の日記のテーマは、人生の四大苦は幻想であるという内容ですが、このすべてが「私たちという存在は何か?」ということと関係しています。 つまり、「私は身体である」という信念、「私は心である」という信念、「私は個別の魂である」という信念そして概念を自分だと考えているなら、そのどれひとつとして、真実を見つけることなどできないことになります。

 コースの概念が、一貫性を保つことができるのは、神-霊-愛-自由-知識-源-実在-だけが真理-真実であり、それ以外は実在していないということによります。 唯一-絶対-の概念から、すべてを見直すことは、何が真理であり真実であるかを明確にします。 また、それ以外に存在するように見えたり、私たちが信じていることは間違い、あるいは夢の中での出来事として見ることにより、その間違いを訂正することができるようになります。 

 このようなコースの概念を、誰もが最初に信じることはできないかもしれません。 それでも、もし、私たちが「真理-真実」を求める生き方をしようとするなら、それをしっかりと見極めるための指標を持つ必要があります。

 そして、コースの概念を完全にこの人生において適用しようとするなら、自分自身の中にわき起こる、まさに一瞬一瞬の想いに注目する必要があります。 ひとつであること-唯一を、信頼し、選んでいるか、あるいは、バラバラな個別に存在しているように見える何かを選んでいるのかを、自らに問い、気づき続けることが、この『奇跡の道』を歩むということだと、最近、よく思います。

 今日は、コースがなぜそのような真理の概念を知る必要があるかを明確にするためのワーク152課をご紹介したいと思います♪

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第百五十二課 決心する力は自分自身にある。

 だれ一人として、自分でそう決めたのでなければ、何かを失う苦しみを味合うはずはない。 だれ一人自分でその状態を選ばないかぎり、苦痛を味合う者はいない。 だれ一人として、自らそんな結果を望んだのでなければ、悲しんだり恐れたり、自分は病気だと思ったりするはずもない。 そのうえ自分自身の同意なしに死ぬ者は一人もいないのである。 すべての出来事は自分の願いが現われているだけだし、自分の選ぶことは何一つ省かれたりしない。 これこそあなたの世界であり、細部にわたってみな完了している。 あなたにとってその真実のすがたが全部ここにある。 だからここにのみ救いがあるといえる。

 こうした姿勢は極端で、本当だとすればあまりにも包括的だとあなたは信じるかもしれない。 だが、真実に例外が有り得るだろうか。 もしあなたがすべてのものを贈り物としてもらったのなら、本当に失うことがあるだろうか。 苦痛が平安の一部だったり、深い悲しみが喜びの一部になったりするだろうか。 恐れや病気が、愛とこのうえない神聖さに満つる心に入り込むことなどできるだろうか。 真実は、いやしくも真実であるなら、すべてを包括するものでなければならない。 反対のものや例外はひとつたりとも受け入れない、そんなことをすれば全面的に真実に逆らうことになってしまうのだから。

 救いとは真実であることは本当であり、他のは何一つ本当ではないと認めることである。 このことはあなたも前に聞いてはいるが、たぶんまだその両方の部分を受け入れてはいないだろう。 最初の部分がなければ、つぎの部分は何の意味もなさない。 しかし二番目の部分がなければ、最初の部分も、もはや本当ではなくなる。 真実には反対のものは有り得ないのである。 このことは何度いっても言いすぎではないし、考えすぎということもない。 なぜなら、もし本当ではないことも本当のことも同じように本当だとすれば、真実のある部分は間違っていることになるからである。 そして 真実はその意味を失っている。 真実であることだけが本当であり、間違っていることは間違いだ。

 これがもっとも簡単な区別でありながら、もっとも不明瞭なことでもある。 しかしそれは、見分けるのが難しい区別だからではない。 ずらっと並んだ選択、しかもどれもみな自分自身のではないようにみえる選択の裏に隠されているからである。 したがって、真実には一貫性がない側面もあるようにみえるが、自分の持ち込んだ矛盾でしかないとは思えない。

 神があなたを創造なさったように、あなたは不変のままでいるはず、一時的な状態は当然のことながら偽りであるから。 それには感情の起伏や、からだと心の状態の変化や、自覚していることや反応のしかた、こういったことがみな含まれる。 これこそ真実であることを偽りから離し、間違っていることはそのまま、真実であることから分離させておいて、すべてを包括するということである。

 あなたは自分の目にする世界を自分で作ったと思うのは傲慢だと信じているが、それはおかしいのではないだろうか。 神がそんなものを作られたのではない。 これだけは確かだ。 神は束の間の夢のようなことや、罪深い者とか罪責感に苛まれている者、恐れを抱いたり苦しんだり心細い思いをしている者、それに死ぬ定めにあるからだの中に住んでいるという心のことなど、どうして御存知だろうか。 あなたはただ、こんな事が現実だと思える世界を神が作ったものと思って、神は正気ではないと責めている。 神は正気を逸してはいらっしゃらない。 しかしこんな世界を作るのは気が狂ったものだけなのは確かだろう。

 神が混乱状態を起こされたと思ったり、神の御意志に逆らったり、真実とは反対のことをでっちあげたり、命を征服するために死の苦しみを味わおうとする、こうしたことこそすべて傲慢というものだ。 謙遜であれば、こうしたことは神には属さないとすぐわかる。 それにあなたには、神が創造なさらなかったものが見えると言うのだろうか。 見えると思うとすれば、ただ神があるようにと意図なさらなかったものを自分には知覚できると信じているだけのこと。 これ以上に傲慢なことがほかにあるだろうか。

 今日こそ本当に謙遜して、自分たちの作ったものをあるがままに受け入れることにしよう。 決心する力は自分たちにある。 ただ、宇宙の共同創造者としての自分の正当な立場を受け入れると決心しさえすれば、あなたが自分で作ったと思っているものはみな消えてなくなるであろう。 そのあとで、今までそれしかなかったし、今もこれからもずっとそのままであるものを自覚するようになる。 そしてそれが、ただ御父と御子へささげた祭壇を奪わせようとして自己を欺いていたことに、取って代わる。

 今日こそ我々は本当の謙虚さを実践し、自我が傲慢だと証明しようとして間違った振りをしていることを放棄しよう。 自我だけが傲慢になりえるのである。 しかし真実には自らの力強さと、その不変のすがた、永遠に完全でありすべてを含んでいる状態を、神が御愛し子に授けられたこの上ない賜物であると認める謙虚さがある。 自分たちは罪人であると言って、罪責感に苛まれたり恐れを抱いたり、自分のことを恥じたりするような傲慢さは捨てて、そのかわりに自分たちを純潔で御自分に似た力と愛のうちに創造して下さった神にたいし、本当に謙虚に自分たちの胸を張ろう。

 決心する力は自分たちにある。 だから我々はあるがままを神から受け入れ、神の子だと謙虚に認める。 御子を認めるとは、自己の概念をすべて捨て去り、それを間違いだったと認めることでもある。 そんな概念は傲慢だと見なされたということ。 そして、神の子の輝き、その優しさ、全く罪のないすがた、御父の愛、地獄から解放され天国を得る権利、これをみな自分のものとして謙虚に、喜んで受けいれることである。

 今こそ我々は一つになって、うそ偽りは間違いであり真実のみが本当であるということを喜んで認める。 起きたときには真実のみを思いうかべ、五分間ほどその習わしを実践し、自分の怖がっている心をつぎのようなことばで励ますがいい。

 決心する力は自分自身にある。今日こそ、御父の意志で
 創造して下さった自分をそのまま受け入れることにする。

 そのあと、自分で自分の心を欺くようなことはみなやめて、我々の真の自己に本来のすがたを現してもらいたいと謙虚に頼みつつ、静かに待つ。 そうすればその真の自己はずっとそばにいたので我々にまた自覚できるようになるし、その真の自己の住まいを、そうなることになっていた通りに、感謝のうちに神に戻してくれる。

 根気よく一日を通して、その真の自己を待つことにし、一時間ごとにその日のはじめに使ったことばで招き、同じくこの真の自己を招待することばで一日を終える。 神の御声は答えてくれる、そのお方はあなたとあなたの御父のために話すのであるから。 そのお方は、あなたの気が狂ったような思いをみな神の平安に替え、自己欺瞞を神の真実に、そしてあなたが抱く自分自身についての錯覚を神の子にと替えてくれるのである。
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