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身体とは想念・イメージそのもの♪

 身体とは想念・イメージそのものである、
 身体自体がひとつの想念であるということ。

 身体とは、思考(想念)によって物質化されたイメージ。
 自分は身体-肉体だと信じている思考である。

 これは「奇跡のコース」を学び実践されている人や、ラマナ・マハルシの教えを実践されている人にとっては周知のことではあります。

 通常の信念においては、「私は身体である」という考えにもとづき、それを自分だと当たり前のように信じているのが私たちの現状ではあります。しかし、それが真実であるかどうかについて、私たちのいつも何気なく行っていることを見直し観察するだけでも、「それが本当なのか?」とその信念自体に疑問をもつことになると言えます。

 上記のような考えは、物質を基準にした考え方のなかでは馬鹿げた考えに見えるかもしれません。

 その理由として、物質や身体を基準にしてものごとを観察することを前提とした科学という分野において、「身体のなかの脳があるから、私たちは考えることができる」という強固な信念があるからです。

 そう、つまり私たちは何らかの理由で、意識が身体と結びつき、身体から自分の外側に見える世界を見ることが“当たり前”になりすぎたため、この世界の基準・前提やそこで教えられたことを信じることからスタートせざるをえないように初期設定がなされた、あるいは自らをそうしてしまった、と私は上記の教えや自らの体験から考えるようになりました。

 ところで、人の記憶はいつから起こるのでしょうか?

 私の場合、ゼロ歳児のころの記憶はほとんどありません。せいぜい2,3歳のころの断片的なものしかありません。しかし、なかには前世の記憶を保持している人がいるということも、本で読んだこともあります。でも、自分自身がそのような記憶を持っていなければ、それはただ「そんなこともあるかもしれない」あるいは、「そんな馬鹿げたことはありえない」で終わりかもしれません。
 前世の記憶を信じるにしろ信じないにしろ、そのような記憶を実際に保持している自分自身を感じ取らなければ、それを自らの真実だと考えることはできないと言えます。

 もっとも、それを確かなヴィジョンとしてみる千里眼のような能力があったとしても、それもあくまで心-自我によってつくり出された魔術のようなものであり、さまざまな次元において心が何をしているかを理解することはできたとしても、そのような能力に溺れてしまう性質があり、逆に真の自己(真我)から遠ざかるリスクがあるようです。
 真の自己を知ることとは、すべての分離を消滅させるという意志であり、自分自身が特殊な能力をもっていることを自慢したり誇示しようとする-エゴの欲望を満たす-こととはかけ離れているからです。

 肉体の誕生ということを、ただ事実として眺めてみると、ある両親から生まれた「私」という物体-肉体、そして両親によって名づけられた「私」が「私」である、ということになるでしょう。

 それ以後、この物質世界で定義された言葉や考えを学ぶことで、立派な人間のできあがりです(笑)

 しかしながら、身体から眺める景色(色・空間)、音、匂い、味、感触という五感によって感じられるすべては、「私」という意識がなければ世界もないという「前提」から見直す-あるいは外側の世界は意識があり観察される者がなければ、それは無いも同じだという結論に行き着くとき、一般的な常識にある変化が起こります。

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 上記と関係する私の日記「すべてのなかに具体性から抽象への流れがある」

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1199273633&owner_id=6354843

 「私は在る」について
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1198269218&owner_id=6354843

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 私がいる-ある-からこそ世界が存在する・・・と。

 

 しかし次に、私が死んだとしても、世界は存在することだろう・・・

 だから、その結論はおかしい・・・

 とたいていの人は考えることでしょう。

 そこで考えを止めてしまう方がほとんどかもしれません。

 ここで、私たちが人生の1/3の時間を無意識に過ごしている「眠り」という状態について考えてみるとおもしろいことがわかります。

 私たちが「眠り」の状態にあるとき、身体という意識がなくなったとしても、私たちは存在することができるのです。
 特に「深い眠り」の状態にあるとき、意識が身体にもとづく執着から離れ、なにもかも忘れているため、不安が消え去っています。
 さらに、身体とともにあった意識が「眠り」の状態にあるとき「無時間(時間を自覚しない、あるいは時間の制約を受けない)」にある自己がいて、空間や次元を超えていたり、「深い眠り」の状態においては、空間そのものを完全に無自覚に消滅させている、ということができるのです。

 世界があっても(起きている時の意識)、なくても(深い眠りの状態の意識)・・・私はある。

 このことは、世界や身体がなくても、あるいは自分を身体と同一視する意識がなかったとしても、私は生存-存在し続けることが可能であることを意味します。この世界における身体の死滅は、その身体と結びついていた意識が、単にその身体に戻ってこない状態だと考えることもできると思います。

 「私は本当に身体なのか?」というテーマを探究するために、外側に見える物質、身体、そして目に見えない「思考-想い-感情-気持ち」との関係性を少し考えてみたいと思います。

 私たちは何か自分の外側にある何かを見たり、聞いたり、感じたりを当たり前のようにしていますが、それが認識されるのは形のない意識-思考(想い)があってはじめてそれがわかり、その外側にある何かについて、これまた目には見えない「身体によって学習された反応パターンによって快適なモノが近くにある-安心しているとき好き-幸せという気持ちを感じ、同じく-不安・恐れを感じる-不快なモノがあるとき嫌い-不幸せな気持ちというリアクション-感情-が沸き上がってきます。

 意識する存在(上記では身体)
 →*思考→外側にある物質を感覚器官により認識→感情的なリアクション→
 意識する存在→*繰り返し

 論理的・機械的な考え方をするなら、つねにこのような仕組みが働き、それが繰り返されているのが人生であると言えます。

 それらは一見すると、身体そして脳がなければ感じられないと信じているかもしれません。

 でも、私が身体であるという意識がなくても、「私はあるのではないか?」・・と考えることができるのです。それが、さきほど私がおもしろいと話した、私たちが日常的に繰り返している「深い眠り」のとき、つねに起こっているのです。

 眠りには二つのパターンがあるようです。
 一つは夢見の状態であり、もうひとつは夢をまったく見ていない「深い眠り」の状態です。これら二つの状態は、ともに現在の私が身体であるという意識が希薄になる、あるいはその考えを忘れた-無意識の状態において顕在化されるという特徴があります。

 この無意識とは、今の私の身体という意識が希薄になる、あるいは身体意識が無くなった-忘れたようであったとしても、意識が消滅したわけではなく「ある」ことに注意-留意するとおもしろいと思います。 

 もちろん、夢見の状態は、起きている時、強く印象に残った何かが無意識のなかで混ざり合うような状態もありますが、それとはまったくかけ離れている夢を見ている状態もあります。
 日常の意識とのちがいは、身体に対する感覚が、起きている状態の感覚より希薄あるいは、痛覚は感じにくい状態にあるのも、その状態にあるときの特徴だと思います。

 昔、自分の(あるいは誰かの・笑)ほほをつねって痛みを感じ、「夢じゃない!」というギャグがありましたが、通常の意識と夢の意識の状態のちがいは、痛覚があるかないかと、意識が他の次元をさ迷うようがごとく、身体の意識が希薄化している状態においては、時空間を超越した状態を夢見の状態では体験することができる、と言うこともできます。

 ここで少しラマナ・マハリシの教えのなかで注目すべき言葉があるのでご紹介したいと思います。

 *****************************

 眠りは無知ではない。
 それは人の純粋な状態である。
 眼が覚めている状態が知識なのではない。
 それは無知である。

 眠りの内には完全な目覚めがあり、眼が覚めているときには完全な無知がある。
 あなたの本性は、その両方にゆきわたっており、その彼方に広がっている。
 真我、知識と無知の両方の彼方にある。

 眠り、夢、目覚めの状態は、真我の前を通り過ぎてゆく、ただの様式にすぎない。

 それらはあなたがそれを自覚しようとしまいと、進んでいく。

 *****

 身体とはわれわれの想いに他ならない。
 想いがなければ、身体も存在しえない。
 世界はただ精神的なものでしかない。
 
 あなたが物理的な身体と自分自身を自己同一視しているため、
 この世界を物理的なものと見なしてしまう。

 存在するもの、それは精神だけなのである。

 *****

 聞く人なしに透聴能力はありえず、
 見る人なしに透視能力はありえない。
 遠くの音を聞こうと近くの音を聞こうと、何のちがいもない。
 ただ聞く人だけが重要なのだ。

 聞く人がいなければ、聞くことはありえない。
 見る人がいなければ、景色もありえないからである。

 *****

 この身体の内に「私」として立ち現れるものが心である。

 自分の身体の内のどこに、
 まず「私」という想いが現れるかを調べてみると、
 それは自分のハートであることが知られるだろう。
 
 すべての想いのなかで最初のものは「私」という想いである。
 他のすべてはその後にやってくる。

 最初の「私」という個人代名詞なしには、
 第二、第三のものはありえないだろう。

 以上は、「静寂の瞬間 ラマナ・マハルシとともに」ナチュラルスピリット刊からの抜粋です。

 ****************************

 さて、ここで私がなにをこの日記で書きたいかについて、こちらへよく遊びに来てくださっている方はよくご存じでしょうから、あらためて私の決まり切った結論を書くことをやめたいと思います。

 「Who am I ?(私は誰か?)」

 科学・哲学を超えて、
 存在としての私たちは
 これをなにより探究し知ることが
 世界という結果を変えようとすることより
 真実が見え、自らの幸福とは何であるかが見えてくる・・・
 そのように、私は感じています♪
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