FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ホログラム-メモ6♪

 今日は、6章の最後のところを抜粋したいと思います。
 その間に書いてあった内容としては、東洋医学の気やチャクラを見る能力者たちの話(この中には以前私が夢中になって読んでいた著者たちもかなり登場していました。たとえば、バーバラ・ブレナン著「光の手」、リチャード・ガーバー著「バイブレーショナル・メディスン」などです。特にバーバラ・ブレンナンは、「ヒーリング」にこっていたとき彼女のプレ・セミナーに参加し、一時はスクールに入ろうかと考えたこともありました。でも、なんだかちがうような気がしたので、スリーインワン・キネシオロジーのほうを選んだという経緯があります。
 また、名古屋で吉野さんという私のキネシオロジーにおける師匠がいて、その方からこの本の中でも紹介されているドローレス・クリーガー博士の「セラピューティック・タッチ」をテクニックとして少し学んだこともありました。
 まぁ、私の体験はおいときまして、前にも登場した神経生理学者のプリブラムの考えを抜粋したいと思います♪

********************************
「心と人間の気場」

 プリブラムは、五感による入力を脳が周波数という言葉に変換することを発見したのちにある結論に達したが、人間の気場を調べていくと、やはりそれとまったく同じ結論が導かれる。これは非常に意義深いことである。
 その結論とは、私たちには二つの現実があるというものだ。一つは、私たちの体が固体として、時空のなかで正確にある位置を占めているように見える現実。そして、もうひとつは、私たちの本来の存在そのものがかすかな光を放つエネルギーの雲のようなものとして現れ、空間におけるその究極的な位置も曖昧でしかないような現実である。この認識は、かなり深遠な問題を伴っている。
 たとえば、それなら心はいったいどうなってしまうのか? 私たちは、自分の心が脳の産物であると教えられてきたが、もし脳や肉体がホログラムでしかなく、段階的にその精妙さを増していく気場の連続体における最も高密度な部分にすぎないとしたら、これは心というものについていったい何を語っているのだろう? 気場に関する研究がこの答えを提供してくれる。

 サンフランシスコのマウント・ザイオン病院の神経生理学者、ベンジャミン・リベッドとバートラム・ファインスティンのふたりによってなされた発見が、科学界で最近ちょっとした論争を巻き起こしている。
 リベットとファインスティンは、患者の皮膚への触覚による刺激が電気信号として脳に到達するまでの時間を測定した。また患者には、自分に何かが触ったと感じたのを意識したときにボタンを押してもらった。リベットとファインスティンは、刺激が起きた後0.0001秒で脳がそれを認識し、患者は刺激を与えられてから0.1秒後にボタンを押したことがわかった。
 しかし驚くべきことに、患者は“0.5秒近くもの”間、刺激を受けたこともボタンを押したことも意識の上で認識したとは言わなかったのである。これは、反応すべしとの決定を患者の無意識の心が下していたことを意味している。自分の行動についての患者自身の認識だけが遅れていたのだ。さらに気になることは、被験者のだれ一人として、自分がボタンを押そうと意識的に決断する前に、すでに無意識の心がそうさせていたということを認識していなかった、という点だ。
 実際には自分の行動を意識的にコントロールしていなかったにもかかわらず、あたかもそうしていたという心地よい幻想を彼らの脳が創りあげていたのである。

(あきやん註:奇跡のコースを学んでいる方が、ここの部分を読んで、私たちは自分で意志決定をしているつもりが、じつはそうではなかったことに気づかれ、恐ぁ~って書かれていました。笑)

 この発見を聞いて、自由意志などというのは幻想なのかと考えさせられた研究者もいたようだ。その後の研究では、たとえば指をもちあげるといったように、私たちがある筋肉を動かそうと「決めた」ときには、その1.5秒前に脳がすでにその動きを行うのに必要な信号を出し始めていることがわかっている。ここでも、決定を下しているのは、いったい誰なのか? 通常の意識なのか、はたまた無意識の心なのか?

 ハントの発見はもっとすごい。脳よりも気場のほうが刺激に対して早く反応を示すことを彼女は発見したのだ。気場を流れる微弱電流と脳波を同時に計測し、大きな音を立てたり、まぶしい光を当ててみると、気場のほうが必ず脳波より前に反応を記録することを発見したのである。これはいったいどういうことなのだろうか?
 「人間が世界と関わっていくなかでのひとつの重要な要素として、脳の果たす役割をひどく過大評価しすぎてきたのだと思います」とハントは語っている。「脳はただの性能の良いコンピュータです。でも、創造性、想像力、霊的なものなどに関わるような心の側面は、いずれも脳には見あたりません。心は脳にあるのではないのです。あの例の『場』にあるのですよ」。
 
 キャロル・ドライヤー(超能力者として活動・著者もクライアントとして彼女と親交がある)も、人が反応を自覚するより先に気場のほうが反応してしまうことに気がついた。その結果、彼女は顧客の反応を顔の表情で判断しようとするのではなく、目を閉じたまま、その人の気場がどう反応するかを見極めることにしたのだという。「話しながら相手の気場の色が変わるのが見えるの。私の言っていることについてどう感じているか、わざわざ聞かなくても見えるのね。たとえば場が全体にぼんやりしてきたら、私の言ったいることが理解できていないというのがわかる、というように」と彼女は述べている。
 
 もし心が脳にあるのではなく、脳と身体の両方に浸透している気場にあるのだとしたら、ドライヤーのような超能力者が、なぜ人の精神の中身のかなり多くの部分を気場の中に見ることができるのかも説明がつく可能性がある。また、前述したように、ふつう思考とは関係ないとされている脾臓のような臓器が、どうして独自の初歩的な形態の知性をもつに至ったのかも説明できるかもしれない。

********************************

補足)著者は脾臓を悪くしたことがあり、なんとか回復させようと、視覚化の訓練を毎日することにしたが、気が短く直ちに成果をもたらさなかったため、怒ってしまった。次の瞑想のとき、彼は頭のなかで自分の脾臓をしかりつけ、とにかく私の言うとおりにしたほうがいいぞと、厳しい言葉で伝えたのだった。
数日後、彼はドライヤーに会い、自分の身体をみてくれるように頼んで、何か気をつけたほうがいいことがあるかどうかを尋ねた(上記の問題のことは言わなかった)。それでも、彼女は直ちに私の脾臓のどこが悪いのかを説明し、そしてそこで一息いれると、どうもわけがわからないといったようすで顔をしかめるのだった。「あなたの脾臓は何かとても頭にきているわねえ」と彼女はつぶやいた。そして突然、ピンときた。「脾臓にどなりちらしたの?」 彼はおそるおそるそのとおりだと認めた。ドライヤーは、もうお手上げねと言いたげなようすだった。「そんなことをしてはだめ。あなたの脾臓はあなたが望んでいると思っていたことをしたために病んでしまったのに。それも、元はと言えばあながた無意識にまちがった指示を与えてしまったからなのよ。それでこんどはどなりちらすんだから、脾臓は本当にわけがわからなくなっちゃったのよ」。彼女は心配そうな様子で首をふった。「絶対に、絶対に自分の身体や内臓に対して怒ったりしてはいけない」と彼女は忠告した。「いいメッセージだけを送らなくてはだめ」。

********************************

 まったくのところ、もし心が場のほうにあるのだとしたら、私たちの意識、思考、感情を覚える部分が、肉体の内部に閉じこめれているとは限らないとも考えられ、これから見ていくように、この見解を裏付ける証拠も実際にかなり存在しているのである。
 しかし、まずこれとは別の問題に注目しなくてはならない。ホログラフィック・ユニヴァースで虚像にすぎないのは、なにも身体の固体性だけではない。前にも見たように、ボームは時間そのものでさえも絶対的なものではなく、内在秩序から花開くようにその姿を現してくるものだと考えている。これは、過去、現在、未来といった、時間を直線的に分ける区別も、これまた心がつくりあげたいまひとつの概念構造にすぎないことを示唆している。次章では、この考えを立証する証拠材料、それに「いま/ここ」に生きる私たちの生活の中で、この見方がどんな意味を持っているかについて考察してみたい。

「ホログラフィック・ユニヴァース*マイケル・タルボット著*春秋社刊 第六章」より抜粋。

********************************

 今回の話とはまったく関係ないのですが・・・
 今日の岩倉(市)は、とってもお天気がよく、太陽のひざしを心地よく感じました♪

 そこで、太陽の光を額にあて、目を閉じていました。

 そうしているとなんだか、私にとって一体感を感じた体験をもう一度体験できるような気がしたからです。目を閉じていても光を感じ、そのなかに全身を委ねていると、やさしさに包まれていくように感じ、とても心が穏やかになりました♪
スポンサーサイト

ホログラム・メモ5-3(意識が素粒子を創造)

 今回登場するジャーンとダンの考え方は、とてもACIMの考え方に近いと思います。私だけでなく、みなさまにとっても、何らかのヒントになるような気がしたので抜粋しておきますね。

********************************

「意識が素粒子を創造しているのか否か、それが問題だ」

 この意見の違いは、ホログラフィック理論がまだまだ完成途上であることをあらためて示しており、ちょうど太平洋で生まれたばかりの島が、火山活動のために海岸線がまだはっきりと定まっていない状態に似ていなくもない。この合意の欠如を批判の根拠にする向きもあるが、思い起こすべきなのは、科学が生み出した諸理論でさえ、まだまだ流動的な状態にあり、進化論者たちはその適用範囲、解釈、その過程を律するメカニズム、そしてその及ぼす影響について未だに議論を続けているという点である。
 また、この意見の相違は、奇跡というものがいかに複雑な謎であるかという点も浮き彫りしている。
 ジャーンとダンも、日常の現実の創造に意識が果たす役割について、これまでのものとはまたさらに異なる意見を提示しており、それはボームのものとは基本的前提から異なっているものの、奇跡が生じるプロセスについての洞察を提供してくれる可能性があるのでここでも取り上げておく価値があるだろう。
 ボームと異なり、ジャーンとダンは、素粒子は意識が介在するまではそれ自体のリアリティを“もたない”と考えている。
 「宇宙は受け身の状態で存在し、その構造をわれわれが調べているといった図式は、高エネルギー物理学の分野では完全に過去のものとなっていると思う」とジャーンは述べている。「われわれはいまや、意識と環境との相互作用が真に根源的なレベルで行われており、いかなる意味においても現実が我々が創造しているのだと言えるような領域に入り込んでいる」。

 これまで述べてきたように、これはほとんどの物理学者が抱いている見解でもある。しかし、ジャーンとダンの立場は、重要な点でこの主流的な考え方とは異なっている。ほとんどの物理学者は、念力を説明するのに意識と素粒子との相互作用という概念を使うことなど、頭から拒絶するだろうし、奇跡などはもちろん問題外であろう。それどころか、彼らの大多数は、この相互作用がもつ意味を無視しているだけでなく、そんなものは存在しないかのごとく振る舞っているのである。「ほとんどの物理学者は、一種の分裂症的な見方をつくりあげていく」。

 シラキュース大学の量子理論物理学者フリッツ・ロアリックはこう語っている。「一方で彼らは通常の量子理論の解釈を受け入れる。しかしもう一方では観察されていないときでさえ量子世界は実在すると主張するのである」。

 この異様とも言うべき、「真実とわかっちゃいるけどそれは考えたくない」式の態度は、量子物理学のもたらした最も驚異的な発見について、多くの物理学者がその哲学的な意味を探る妨げにもなっている。

 コーネル大学の物理学者N・ディヴィッド・マーミンが指摘するように、物理学者は三つに分類することができる。ごく少数はこの哲学的な意味を考察して悩んでいる。二番目のグループは、なぜ自分が悩んでいないのかについてややこしい理屈をつけるが、その弁明は、彼らが「基本的なポイントが何もわかっていない」ことを露呈してしまう傾向にある。そして三番目のグループは、ややこしい弁明もしなければ、なぜ自分が悩んでいないかについても語ろうとしない。「その立場はあまりに頑なで話にならない」とマーミンは言う。

 ジャーンとダンはそれほど臆病ではない。二人は、物理学者は素粒子を発見しているのではなく、実は“創造している”可能性があると考えている。その証拠として、二人は最近発見したアノマロンと呼ばれる素粒子のことをあげているが、この素粒子は、研究が行われる場所によって異なった特性を見せているのである。運転する人によって色や特徴が変わる車を持っていることを想像してほしい。これはきわめて興味深い点であり、アノマロンの現実の姿は、だれがこれを発見/創造するかによって変わってしまうことを示唆している。
 同じような証拠がいまひとつの素粒子のケースにも隠されている可能性もある。1930年代、パウリは、放射線に関わるある未解決の問題を解くため、体積をもたない新しい素粒子、ニュートリノの存在を提唱した。長年にわたりニュートリノはただの概念にすぎなかったが、1957年に物理学者たちはその存在の証拠を発見した。しかしもっと最近になると、もしニュートリノが多少の体積をもっていたなら、パウリが直面していたよりもさらにややこしい問題をいくつか解明できることがわかったのである。すると、驚くなかれ、1980年に、ニュートリノは小さいながらも計測可能な体積を持つことを示す証拠が出はじめたのである! それだけではない。体積をもったニュートリノを発見したのは、結局のところ旧ソビエト連邦の研究機関に限られ、アメリカの研究機関ではこれが発見できなかったのだ。1980年代を通じておおむねこの状況は変わらず、いまでは他の研究機関でもソ連と同じ結果を出すことはできたものの、この問題はまだ未解決のままである。

 ニュートリノが様々な特性を示したのは、少なくとも部分的には、それを探し求めていた物理学者の期待や、彼らの文化的先入観のせいだ、ということがありえるだろうか。もしそうだとしたら、これは興味深い問題を提起することになる。もし物理学者が、素粒子を発見するのではなく創造しているのだとすれば、たとえば電子のような素粒子は、なぜ誰が観察しようとも変わらない安定した性状を持っているように見えるのか? 言い換えれば、電子の知識が何もない物理学専攻の学生が、なぜベテランの物理学者と同じ特性を発見できるのだろうか?

 その答えとしてはひとつ考えられるのは、世界に関する私たちの知覚は、必ずしもすべて五感を通して受け取る情報のみに頼っているとは限らないということである。あまりにも常識からかけ離れたように聞こえるかもしれないが、この考え方は充分な根拠をもってその正当性を論ずることも可能である。

5-183

********************************

ホログラム・メモ5-2(意識とすり込まれたプログラム)

 前回の日記では、私たちの常識では信じがたいフランス痙攣行者の話を抜粋しました。今回は、それらの現象とホログラフィック理論とがどのように結びつく可能性があるかについて書かれた内容を抜粋します。

********************************
物理法則は「習性」か現実か

 これまで見てきたような念力の例で、逃げたエネルギーはどこにいったのかを想像するのが困難なのに劣らず、赤熱した鉄製の鍋がセイロン人の髪と頭皮にぴったりとくっついているとき(1959年5月号:「アトランティック・マンスリー誌では、イリノイ大学のレナード・フェインバーグ博士が、セイロンで行われていた火渡り儀式を報告しており、そこでは現地の人間が赤熱した鉄製の鍋を頭の上に乗せていたのに、彼らは火傷を負うこともなかったという内容)のエネルギーがどこに行ってしまうのかも理解しがたい。しかし、もし意識が内在秩序に直接介在できるのであれば、これはもう少し扱いやすい問題となる。
 ここでも、現実の枠組みの範囲内で働くまだ未発見のエネルギーあるいは物理的法則(たとえば、断熱効果をもつなんらかの力の場など)によるものというよりも、もっと根本的なレベルでの働きの結果であり、もともとこの物理的宇宙、物理的法則を創造したプロセスが直接関わっているのだろう。
 ちがう見方をすれば、意識が一つの現実からまったく異なる現実へと跳び移る能力があるということは、たとえば「火は人間の皮膚を焼く」といった通常は犯すことのできない法則も、宇宙コンピュータが抱えるたくさんのプログラムのひとつにすぎないという可能性があり、それもあまりに頻繁に繰り返し起動させたため、言ってみれば自然が持つ「習性」のひとつとなってしまったプログラム、ということになるのである。
 前にも述べたように、ホログラフィックな見方によれば、「物質というのもこれまたある種の習性」であり、実のところ、それは内在秩序からいつも新しく生まれ変わっているものである。もともと噴水に形を与えた源である水の流れが、その新しい形を絶え間なく創造しているのと同じことだ。デイヴィッド・ピートは、繰り返しが多いというこのプロセスの性質を、冗談まじりに一種の「宇宙神経症」と呼んでいる。
 「神経症にかかると、あるメモリーが蓄積されて、それが同じところでひっかかってしまったかのように、自分の生活の中で同じパターンを繰り返したり同じ行動をとったりする傾向が出てくる」と彼は語る。
 「私は椅子やテーブルといったようなものもこれと同じなのでは、と思うことが多い。それはちょうど物質の神経症、とでも言えるもので、要するに繰り返しの産物なのである。しかし、現実の中にはそれよりもずっと深い神秘的な何か、途切れることない包み込みと開示が存在しているのだ。この意味で、椅子やテーブルは、絶え間ない流れの中にできた「習性」でしかなく、たとえ私たちの目には習性だけしか見えなくとも、流れのほうこそが真の現実なのである」。

 なるほど、宇宙、それに宇宙を律する物理法則もこの流動的な産物であるとすれば、これらの法則もまた習性としてとらえる必要がある。
 もちろん、これらの法則はホロムーヴメントの中でも相当深く刻み込まれた習性であることは明らかだが、火に対する耐性といった超常的才能を見ると、見かけ上の恒久性に反し、現実を規定しているこれらの法則の少なくとも一部については、その効力を一時中断させることも充分可能であることをそれは示している。
 これはつまり、物理法則は石に刻み込まれたかのごとく絶対的なものではなく、先にあげたシェインバーグの言う渦巻きのようなものであり、巨大な慣性の力によってその継続的存在を支えられ、私たち自身のもつ習性や、深い確信を伴う信念が思考の中で固定されるのとまったく同じように、これもホロムーヴメントの中で固定されてしまった渦巻きであることを意味しているのだ。

 内在秩序の中でこのような変化を起こすためには変性意識状態が必要なのかもしれない、というグロフの考えは、火に対する耐性が高揚した信仰心や宗教的熱狂と頻繁に関連づけられているという事実でも裏付けられる。前章からだんだんと明らかになってきたパターンがここでも繰り返され、さらに明白になってきている。つまり、私たちの信念が深ければ深いほど、そしてそれが強烈な感情を伴うものであればあるほど、自分の体、ひいては現実そのものに対して私たち自身が起こすことができる変化も大きなものになるのである。
 
 特殊な状況下では意識がこれだけ目をみはるほどの変化を起こすことができるのであれば、私たちの日常の現実を創造するのに意識がいったいどんな役割を演じているのかをここで問うべきなのかもしれない。
 これについての意見は人によって極端に隔たりがある。個人的な会話の中では、ボームも宇宙はすべて「思考」であり、現実は私たちが考えるものの中にしか存在していないと思っていることを認めるものの、先に述べたように、彼は奇跡的な出来事について推論することは避けたいとの考えだ。プリブラムも、ボームと同様に特定の出来事について意見を述べることはためらうが、いくつもの異なる現実が存在している可能性があり、その内のどの現実が表面化してくるかに関しては、意識がある一定の裁量をもっていると考えている。「何でもあり、だとは思いません」と彼は語る。「でも私たちの理解できない世界がたくさんあることだけは確かです」。

 奇跡現象に関して長年にわたり自分自身で体験を重ねたワトソンは、さらに一歩踏み出した意見を持つ。「現実がほとんどと言っていいほど想像によって生み出されるものであることは、私には疑いの余地がない。もちろん私は素粒子物理学者でもないし、その分野における最先端の知識を把握しているわけでもないが、私たちはたしかに自分のまわりの世界を根本的なレベルで変える力を持っていると思う」(ワトソンは一時はホログラフィック理論を強く支持していたが、いまでは現存の“いかなる”理論も、精神の持つ超常的な能力を完全に説明することはできないと確信するようになっている)。

 カリフォルニア大学アーヴァイン校の精神医学および哲学教授であるゴードン・グローバスは、これとは多少異なるものの、似たような見方をしている。精神が内在秩序の中にある原材料から具象的現実を創り上げているという説に関しては、ホログラフィック理論は正しいとグローバスも考えている。しかし彼はまた、人類学者カルロス・カスタネダがヤキ・インディアンのシャーマンであるドン・ファンと体験した、いまではよく知られている彼岸の世界での体験の数々にも深く影響を受けている。
 プリブラムとはまったく対照的に、彼はカスタネダがドン・ファンの教えのもとに体験した無限とも言える「別の現実」の数々、また私たちがふだん夢の中で体験する、これと変わらぬほど膨大な現実は、内在秩序に潜在的な現実が数限りなく内包されていることを示していると考える。そればかりか、脳が日常の現実を構築するのに用いるホログラフィックなメカニズムは、私たちの夢や、カスタネダ的な変性意識状態の最中に体験する現実を構築するときと同一のものであることから、グローバスはこの三つのタイプの現実は根本的に同じだとも考えているのである。5-180

「ホログラフィック・ユニヴァース*マイケル・ラルボット著*春秋社刊」より抜粋。

********************************

 仏教では、「この世界のすべてもまた夢である」というような教えもあるようです。これは最後のところに出てきたグローバス氏の考えとよく似ていると思います。

 このような考察については、私自身、今までも断片的に様々な本や技術の中で触れてきましたが、すべてが夢(無明・幻想)であるなら、その先にある「真の現実とは何か?」「夢から覚めた時に何が起こるか?」そして、「また、目覚めるために私たちが日常的に何ができるか?」を、それぞれが自らの心の奥にある真実に聞きながら洞察を深めていくことは個人的にとても大切だと感じています。

 心の平安を望むすべての人が、道(光明)を見出すためにも・・・

 続いて、ホログラフィック・メモ5-3では、上記の考えをさらにちがう視点から見ている「ジャーンとダン」の考察を紹介したいと考えています♪

ホログラム・メモ5-1(フランス痙攣行者の話)♪

 日本の行者が「はだしで火渡りをする」パフォーマンスについて、みなさまも聞いたことがあると思いますが、「ホログラフィック・ユニヴァース 第5章 奇跡がいっぱい」の中では、歴史的な事実-数ある念力現象の現れの中で最も驚愕に値する現象として、「十八世紀フランスで起きた集団サイコキネシス現象」の記述が書かれていました。
 色々な伝説はあると思いますが、これはちょっと歴史的にも異例のものであると感じました。ですが、本当に感銘を受けた内容は、次の「ホログラム・メモ5-2」で抜粋したいと思っています。

 これは、十八世紀前半のパリで実際にあった出来事だそうです。
 この出来事は、カトリックの中でもオランダの影響を受けた清教徒的な一宗派のジャンセニストとよばれる人たちにまつわるもので、同派で敬愛されていた高徳な助祭、フランソワ・ド・パリの死が引き金となって起きたということです。以下、抜粋

********************************

 ジャンセニスムは十七世紀初期に創立された宗派だが、創立当初からローマ・カトリック教会やフランス王朝とは対立していた。その信条の多くは教会の標準的教義とは著しくかけ離れたものだったが、大衆的な運動であり、瞬く間にフランスの民衆の間にその信者の数を増やしていった。最大の悲劇は、この宗派がローマ法王、そして敬虔なカトリック教徒であった国王ルイ十五世の両方から、カトリック教の仮面をかぶったプロテスタント(新教)にすぎないと見られていたことである。
 この結果、教会、国王ともに、常にこの運動の力をなんとか弱体化させようとしていた。このような動きの障害にもなり、この運動自体がこれほどの人気を集めることになった理由のひとつだったのが、宗派の指導者たちが奇跡的治癒を行う能力に特に長けていたという点だった。それでも教会と王朝はこの政策に固執し、フランス全土で激しい論戦が交わされることとなった。
 1727年5月1日、フランソワ・ド・パリが亡くなり、パリのサン・メダールの教区墓地に埋葬されたのは、この権力闘争が最高潮に達していたまさにその時期のことであった。
 この高僧の聖者としての評判が高かったことから、彼が埋葬された墓地のまわりには信奉者たちが集まり始め、もうすでにこのときから様々な奇跡的治癒が行われていたことが記録されている。
 ここで治された病状には、ガン性の腫瘍、麻痺、聴覚障害、関節炎、リウマチ、潰瘍性のできものや、慢性の熱、長期にわたる出血、そして視覚障害までもが含まれていた。
 しかし、事態はこれにとどまらなかった。聖者の死を嘆く弔問者たちは、自分でもコントロールできない異様なけいれんやひきつけを起こしはじめ、まさに驚異的としか言いようがない形で手足の屈曲を行うことまで始めたのである。このけいれんはすぐにまわりに人間にも伝染し、まるで山火事のごとく広がって、あたかも超現実的な魔法にでもかかったかのように体中をくねらせ、もだえながら歩き回る男女、子供たちで通りは埋め尽くされた。
 この「痙攣(ケイレン)行者(Convulsionaires)」と呼ばれるようになった人たちが驚くべき能力を見せ始めたのは、このような発作的トランス状態とも言える意識下にあるときだった。そのひとつが、傷ひとつ負うことなしに想像を絶するような肉体的な拷問の数々に耐えるというものだ。ここでは、激しい殴打、重い物体や鋭い物体による打撲、そして信者たちの首を絞めることまで行われたが、これを受けた人間全てには負傷の跡形さえもなく、あざやかすり傷ひとつどこにも見あたらなかったのである。

 この奇跡現象がきわめてユニークなのは、文字どおり何千という人たちがこれを目撃している点だ。この高僧パリの墓地のまわりで行われた熱狂的集会は、短期間で終わってしまったというものではなかった。墓地とそのまわりの通りは、昼夜を問わず、何年間にもわたって連日人でごった返し、20年たった後でさえまだ奇跡が行われていたという(1733年に記された公の記憶の中に、けいれんの最中に女性の参加者がみだらに肌を露出しないようにするなど、この「痙攣行者」たちの世話をする3000人を越すボランティアが必要だったとの記述があるが、これを見てもこの現象の規模の大きさがわかろうというものだ)。

 この結果、痙攣行者たちの超常能力は国際的にも有名な事件となり、さまざまな社会階層の人たちや、教育機関、宗教団体、政府関係機関など、考え得るあらゆる諸機関の派遣した何千という人々が、一目これを見ようと押し寄せてきたのである。公式、非公式なものを含め、この奇跡を目撃した人の手になるおびただしい数の記録が当時の資料の中に残されている。

 それに、ローマ・カトリック教会の調査官をはじめとして、この現象を目にしようとやってきた人間の多くは、自らの権益を守るためにジャンセニストの奇跡の信憑性を看破する必要があったにかかわらず、結局はその正当性を認めて帰らざるをえなくなっている(ローマ・カトリック教会は、のちにこの不面目な状況を立て直そうと、奇跡の存在を認めるが、それは悪魔の所業であり、したがってジャンセニスムも堕落した宗派であるとの立場をあらためてとることにした)。

 パリ市議会の議員でもあるルイ・バシール・カレ・ド・モンジェロンという名の調査官は、自分が見た奇跡の数々をまとめたが、それは四巻にもわたる大著となり、1737年に「奇跡の真実」という題名で出版された。この著作で彼は、痙攣行者たちが拷問に対して見せた不死身ぶりについて数多くの例をあげている。ある事例では、ジャンヌ・モーレという20歳になる痙攣行者が石壁に寄りかかると、群衆から募った「とても屈強そうな男性」が、重さ14キロはあろうかというハンマーで彼女の腹部を100回にわたり叩き続けた(痙攣行者はこういう拷問をしてくれるよう自分から願い出ていた。彼らによると、痙攣の激痛が和らぐからとのことだった)。
 この後で、ハンマーの衝撃を試すため、モンジェロン自身もこのハンマーで彼女が寄りかかっていた石壁を叩いてみた。彼はこう書いている。「25回目に叩いたとき、それまでの衝撃でも振動していた石壁は、突如としてぐらつき、壁の一部が反対側につきぬけて15センチはあろうかと思われる穴が開いてしまった」。

 モンジェロンがあげるいまひとつの例では、ある女性の痙攣行者が仰向けになって体を反らすと、腰の部分を「杭のとがった先端」で支えるようにした。そして彼女は、20キロ以上の重さの石をロープの部分にくくりつけ、「非常に高い位置」まで吊り上げてから、それをそのまま自分の腹部に落としてほしいと言ったのである。石がつりあげられ、何度も彼女の体の上に落とされたが、この女性はなんら影響を受けた様子もなかった。その無理な体勢をなんということなく保ち、痛みや傷を受けることもなく、この試練が終わると背中の皮膚に何の跡すら残すことなく立ち去っていったのである。モンジェロンによれば、この試練の最中、彼女は「もっと強く打って、もっと強く!」と叫び続けていたとのことだ。
 実のところ、痙攣行者たちを傷つけることができるものなど何もないようであった。金属製の棒、鎖、あるいは材木などで叩こうが彼らは傷つかなかった。最も屈強な男でさえ彼らを銃殺することは不可能だった。十字架に磔になりながら何の傷跡も残さない者もいた。最も想像を絶するのは、ナイフや剣、それに何と手斧でさえも彼らの体を刺したり、切ったりすることすらできなかったという事実だ!
 モンジェロンの報告によると、先端を研いだ鉄製のドリルがある痙攣行者の腹部にあてられ、ハンマーで「あたかも背骨を貫通し内臓を破裂させんばかりの」力で叩かれた例もあるという。しかしドリルは背骨も貫通せず内臓も破裂させることもなく、その痙攣行者は「完璧なる歓喜の表情」をたたえながらこう叫ぶのだった-「ああ、これは体にいい。勇気を持て、兄弟よ。できれば倍の力で打ってくれ!」

 ジャンセニストたちが痙攣の最中に見せた才能はその不死身ぶりだけではなかった。透視能力をもつ者もいて、「隠されたものを感じとる」こともできた。別の者は、目を閉じたままできつく包帯を巻いた状態なのにものを読むことができたり、空中浮遊の例までが報告されているのである。空中浮遊を行ったひとりであるモンペリエの僧ベシュランは、痙攣の最中、「あまりにも強い力で空中に浮き上がったため」、まわりで見ていた人間がいくら彼を押さえつけようとしても地面から浮き上がってしまうのを押さえきれないほどだったという。

 今日の私たちは、このジャンセニストの奇跡のことをまったく忘れ去ってしまっているが、けっして彼らは当時の知識階級に無視されていたわけではなかった。数学者、哲学者のパスカルは、自分の姪の目にできたひどい潰瘍が、ジャンセニストの手で行われた奇跡の結果、わずか数時間のうちに治癒したという経験がある。結局は失敗に終わったものの、国王ルイ15世が痙攣行者の騒ぎをやめさせるべく、サン・メダール墓地を閉鎖しようとしたとき、ヴォルテールはこう皮肉った。「国王の命により、神はこの地で奇跡を起こしたもうことを禁じられた」。
 そしてスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームは、その著作「哲学エッセイ集」の中でこう述べている。「ひとりの人間に帰する奇跡としては、フランスの高僧、パリの墓地で最近行われたとされているものほど数多きものはいまだかつてないだろう。かの奇跡の多くは、この啓蒙された時代に、世界でも最も名高き場において、疑うべくもなき資格と見識を備えた人々の前でただちにその正当性が実証されたのである」。5-169

中略。

 痙攣行者の人間もときとして火に対する耐性を見せている。この、人間サラマンダー(「サラマンダー」とは、中世、火の中に棲むとされる神話上のトカゲのことを指していた)の中でも最も名の知られていたのは、マリー・ソネとガブリエル・モレであった。あるときには、モンジェロンを含め、多数の人間が見ている前で、ソネは燃えさかる火をまたぐような形で二脚の椅子の間に体を伸ばして横たわり、30分そのままの体勢を保った。彼女自身も、彼女の衣服もまったく損傷を受けた様子さえ見せなかった。別のときには、彼女は真っ赤に焼けている石炭の中に足をつけたまま座ることまでやってのけている。ブリガムと同様、彼女の靴と靴下は燃えてしまったが、彼女の足は無傷であった。
 カブリエル・モレの離れ業はさらに唖然とするようなものだ。彼女は、剣によっても刺されず、シャベルによる殴打にもまったく平気なばかりか、燃えさかる焼却炉の火の中にしばらく頭を突っ込んだままにしておいてもまったく傷を負うことがなかったのである。これを見た人の証言によると、彼女の服はほとんど手を触れることもできないくらい熱くなっていたが、髪、まつげ、眉毛は焼けこげることさえなかったという。パーティにでも行けば彼女はきっと大の人気者になったにちがいない。5-174

********************************

 これが今の日本で見られたらすごいですよね~
 こんな現象を目の当たりにすると、きっとたくさんの人が「自分の病気などたいしたことないんちゃうか・・・」なんて、新しい体に対する概念やプログラム(信念)が生まれちゃうと思います。

 ただ・・・「よい子のみなさんは決してマネしないようにね♪」

 って注意書きは必要な気がしますけどウッシッシ

ホログラム・メモ4♪

 今回は、「第5章 奇跡がいっぱい」から、超能力的な現象とホログラフィック・モデルとの関係について抜粋したいと思います。

 奇跡というものに関してある役割を演じていると思われる超能力が、念力現象(サイコキネシス-略して念力)デアル。サン・ジェンナローの奇跡には物質の物理的性質の変化が関わっていることから、念力が関係している疑いが濃い。スコット・ロゴは、聖痕現象の中でも、より劇的なものに関しては念力がこれを引き起こしていると見る。皮膚下にある毛細血管を破裂させ、表面的に出血を起こす程度ならば身体の通常の生物学的能力の範囲だろうが、大きな傷をきわめて短時間のうちに発生させる力としては念力しか考えられないと彼は感じている。これが正しいかどうかはまだこれから判断されるところだが、聖痕に伴う現象の中に、少なくとも念力がひとつの要素となっているものが存在していることだけははっきりしている。テレーゼ・ノイマンの足から血が流れるとき、それは必ず彼女の足の指の先のほうに向かって、つまり、十字架のキリストの傷から流れていたであろう血とまったく同じ方向に流れており、彼女の足がどんな位置であろうとも関係なかった。これは、彼女がベッドで上半身を起こして横たわっていたときには、血が現に“重力に反して上に向かって流れていた”ということを意味している。
 これを目撃した人の数は多く、そのなかには戦後ドイツに駐屯していたアメリカ兵士で、ノイマンの奇跡の力を一目見ようと彼女を訪れた人間も多く含まれている。この重力に挑むような血の流れは、他の聖痕発現者のケースでも報告されている。

(あきやん註:このあたりの内容は、あんまり関心はないのですが、個人的には次の段落からがおもしろいと感じました。)

 このような例は私たちを果てしなく刺激する。なぜなら、現在の私たちの世界観は、念力を理解する枠組みを与えてくれてはいないからだ。ボームは、宇宙を一つのホロムーブメントとして見ることがこの枠組みを与えてくれると考える。何を言わんとしているのかを説明するのに、ボームはこんな状況を考えてほしいと言う。
 ある夜更け、通りを歩いていると、どこからともなく突然人影が現れる。最初に頭をよぎるのは、もしかしたらこの人は暴漢で、自分には危険が迫っているという思いかもしれない。
 つぎにこの思考に含まれる情報が、走る、傷を負う、喧嘩をするなどの一連の想像上の行為を呼び起こす。だが、あなたの心の中にあるこれら想像上の行為は、純粋に「精神的な」ものではない。というのも、それは神経系への刺激、心臓の鼓動の高まり、アドレナリンその他のホルモンの放出などの関連した生物学的プロセスと不可分の関係があるからだ。反対に、もし最初の思いがこれはただの影だということであれば、これとはちがう精神的、生物学的反応が続いて起きることになる。そればかりか、この点をもう少し深く考えてみると、私たちはすべての体験に対し、精神的、生物学的どちらの面でも反応していることに気がつく。
 ボームによれば、このことから学ぶべき重要な点は、「意味」に反応を見せるのは何も意識だけではないということだ。身体もまた反応するのであり、これは、意味というものの本質が精神的であるのと同時に、肉体的/物理的なものでもありうることを明らかにしている。これはちょっと不思議な感がする。というのも、私たちがふつう考える「意味」とは、主観的現実、すなわち頭の中にある思考に対してのみハッキリとした影響を与えられるものであり、事物からなる物質界に反応を生じさせるものではないからだ。意味は、「このようにして現実がもつこの二つの面の間のつながり、あるいは『橋わたし役』として働くことが可能である」とボームは説く。
 「このつながりは不可分のものである。つまり、『精神』の側にある私たちが感じている思考なるものに内包された情報は、また同時に神経生理学的、化学的、肉体的な活動であり、これが明らかに、この思考が『物質』の側にあるときの意味と言えるものなのである」。

 ボームは、意味が客観的な実効性をもつ例は、他の物理的プロセスでも見出すことができると感じている。そのひとつがコンピュータ・チップの働きだ。コンピュータ・チップは情報を内包しており、その情報のもつ「意味」は、コンピュータの中をどう電流が流れる下を決定づけているという点で実効的であると言える。今ひとつは素粒子の挙動だ。
 物理学の通常の見解では、量子の波動は分子に対して機械的に作用し、それは海に浮かぶピンポン玉の動きを波がコントロールしているのと同じだと考える。
 だがボームは、これではプラズマの内部で電子が見せるダンスのようなまとまった動きを説明できないと感じており、もし海上のピンポン玉がこれと同様の見事に振り付けられた動きをしたとしても、それを水の動きだけで説明するのは無理なのと同じことだと考える。
 彼は量子の波動と分子の関係は、自動操縦モードにある船がレーダーの電波で誘導されている状態になぞらえたほうが適切だと考える。
 レーダーの電波が船を押していないのと同じように、量子の波動は分子を押しているわけではない。というよりも、量子の波動は、電子が置かれている環境についての情報を提供し、そして今度は電子がその情報を使ってその環境の中での自分の動きを決めていくのである。
 言い換えると、ボームの考えでは、電子は心のようなものであるばかりでなく、かなり高度に複雑化した存在であり、構造さえも持たない単純な点にすぎないといった標準的な見解からはかけ離れたものなのだ。電子による情報の活用、それどころかすべての素粒子による情報の活用は、意味に反応できるという能力が意識だけの特徴なのではなく、すべての物質に備わっていることを示している。まさにこの根源的な共通性こそが、念力を解明していくれる可能性をもつ、とボームは言う。そしてこう論ずるのである。
 「この考え方にもとづき、念力現象が生じるプロセスは次のように説明できる。ひとりまたは複数の人間の精神的プロセスの焦点が、念力の対象となる物質システムを誘導する『意味』にぴったりと合ったとき、そこに念力現象が起こりうるのではないか」。

 ここで注目すべきは、そのような念力現象が、因果関係、つまり物理学で知られている何らの力が働いてもたらされた原因-結果という関係によるものではないということだ。そうではなくて、念力はいわば一種の非局在的「意味の共鳴現象」の結果として起きるものであり、また第二章であげた、二個の光子が同一の偏光角を示すのを可能にする非局在的な相互結合性と、まったく同じではないにせよ、似たような非局在的相互作用の結果として起きる現象なのである(細かい専門知識に属する理由からボームは単なる量子の非局在性だけでは念力もテレパシーも説明がつかないと考えており、それよりさらに深い形の非局在性、いわば「超」非局在性だけがそのような説明を提示してくれるだろう、としている。)

「ホログラフィック・ユニヴァース*マイケル・タルボット著*春秋社刊-第5章 奇跡がいっぱい 153-156」から抜粋。
********************************

 私たちは、人間として生まれ、名前をつけてもらい、その固有名詞と身体を同一化します。じつはこれもある種の刷り込みであり、そのようなまず身体と自分が結びつけられたデータの刷り込みの連続により、(何年に生まれて、男(女)の子で、誰と誰の間で生まれ・・・内気で・・・・・・・のような感じで)今それぞれの人が、それを自分だと信じ生きていると思います。

 そのようにいっぱい付け足されていった考えや学校や本そして体験などを通して、自分・個・人間としての概念をあたり前のこととし、それを規準にモノゴトを判断するようになっていると思います。

 でも、そのようなデータのすべては、あとからつけ加えられていったものであり、基礎データを少し変えるだけで、またちがった状態になりうる可能性が増えるように思います。

 このような人の信念体系は、単に自分がそう信じているのでそうなっているかもしれない、という曖昧なものなのかもしれません。

 私たちの「身体」と「心」は、ここに生きていると信じている段階において、「自分が何者であるのか、ある意味で、誰も知らない」と言えるのではないでしょうか?

 もちろん、先ほどのような名前が○○で・・・とは説明できますが・・・

 そのようなわけわからず-健忘症の世界で、バラバラの個性がバラバラのことを話し、それぞれの中に真実があるという話もありますが、真実とは「ほんとのこと」だとするなら、相対性の世界の中では「どれも真実」といった解釈をすることもできますが、そうだとするなら、「何一つ真実と呼べるものはなく、真実などない」ということもできるように思います。

 まぁ~この世界は、そのバラバラな自己が実った世界のようではありますが・・・

 あと、これと関連して私の今日の「奇跡のコース」のレッスンを紹介しておきますね♪

********************************
第三百十二課

 すべての物事を自分のしたいと思うように見ている。

 知覚は審きに従う。審きを下しておいて、それにしたがって自分が見ようと思うものを見る。なぜなら、視覚はただ自分の受け入れる気があるものを 提供するのに役立つだけだからである。自分が見ようと思うものを見逃すことは有り得ないし、自分から選んで見ようとすることを見損ねることもまずない。したがって、だれであれ聖霊の目的そのものを見ることを自分の目標とする者は、自分の神聖な目で実相の世界を見るのは確実。そしてその人は必ずキリストが見せてくれるものを見るし、自分が見ているものに、キリストの御愛を分け与える。

 今日、自分の目的は、自分が下したすべての審きから解放されて自由になった世界を見ることしかありません。御父よ、これこそ今日、あなたが自分のために意図なさることであり、したがって自分の目標でもあるに違いありません。

「奇跡の道*田中百合子さんによる翻訳」より抜粋。

********************************
プロフィール

あきやんでぇ~す♪

Author:あきやんでぇ~す♪
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新コメント
FC2ブックマーク
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

FC2カウンター
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
心と身体
1298位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
整体・カイロプラクティック
43位
アクセスランキングを見る>>
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
心と身体
1298位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
整体・カイロプラクティック
43位
アクセスランキングを見る>>
月別アーカイブ
FC2チャット
Twitter...A

Twitter < > Reload

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。